おれが買った最高の漫画を紹介する

細かいことはいい。後で喋るから気になるやつはまあよめ。気にならないやつは漫画のリンクだけ踏んで実物をよめ。省くがとにかくおれは凹んでいた。凹んでいたのでやけくそで気になっていた漫画を全部買った。どれもこれも例に漏れず最高で、全部読みながらちょっと泣いちゃったので、紹介する。さあ読め!!!!!

 

 

①ここは今から倫理です。

grandjump.shueisha.co.jp

 とにかく、高柳先生がえっちである。少し前にツイッターでちょっとバズったやつだ。絵柄と題材への興味の積から購入を選んだが、余す部分なく最高であった!!!!

 簡単には「ミステリアス(かつえっち)な教師・高柳先生が、倫理の授業を取る生徒たちの様々な問題に寄り添っていく」といった、基本一話完結のストーリー。ジャンル的に言えば金八先生をはじめとしたいわゆる“熱血教師もの”と核をなす部分は同質だろう。

 こんな表紙でこんな顔でしかも倫理なんて教科で、こんなめちゃくちゃ暗そうな先生を熱血なんて冠するのには抵抗があるっちゃあるが、でも決して彼はただ暗いだけの自己中男でもなければな冷笑的なニヒリストでもない。基本ポーカーフェイスではあるものの、彼はいっちょまえに焦るし怒鳴るし恥じらうし、よくない言葉を選んでしまったと思ったら相手が生徒だってきちんと頭下げて謝罪する。

 そうやって、己の価値観のみに基づいて頭ごなしに叱りつける、否定するようなことは一切しないけど、とは言えバカでもクズでも何でもかんでも無条件に肯定してくれるような、最近インターネットで流行ってるぬるま湯のような世界観などではない(それはそれで必要だということはおれにもわかるけども)。彼は一個の魂を目の前にしたとき、それがより善くなる道を求めて、いつだって至極真摯なのだ!哲学という問答の学問によって鍛え上げられた彼の魂は密かに、しかし熱く燃えたぎっているのだとおれは、そしてお前は読後確信する!!!!!

 そんで絵柄!絵柄は見てもらえばわかるだろうが、もうとにかくめちゃくちゃえっちだ。えっちだ!!!!!男も女もみなえっち!!!!!!!ほらえっち!!!!!!!見て!!!!!!!ねえ!!!!!!!!!えっち!!!!!!!むちむちの太もも、おっきなお尻、お腹、おっぱい!!!!!!!!!!みんながみんなマシュマロのように柔らかそうでドキドキしてしまう!!!!!!!!!フェチズムを感じられる画風といのはどんなものでも見るものを楽しませてくれるけど、特にもう高柳先生に関してはこれをえっちかえっちでないかで判定させてえっちでない!なんて言う人はよほど心が凍てついているか何か他にものすごい信念を持っているかのどちらかだろう。それくらいもう、えっちの!極み!!なのだ!!!!!!!!個人的にぐっとくるのは首の傾げ方でこいつがあまりにも艶かしい。シャフトだって目じゃない。そんでもって三話でチラ見せされる先生がタバコを吸っている理由、そもそも喫煙という嗜好自体に背徳感と危うさがあってたまらんが、これもちょっとさわりからエモすぎて今後が気になる所存である。

 さて、絵柄から一旦戻って、ここから先は内容に少し触れる話になってしまうが、個人的に刺さったエピソードは四話のアレテーの話である

 本田さんはぬいぐるみに人格を見出すことによって、誰かを傷つける代わりに自分を守ろうとしていた。結果として本田さんが傷つけてしまったのはぬいぐるみに乱暴をした同級生を殴ってしまったことのみにしかよらず、本田さんは迷いもがきながらも人として「善くあろうとしている=アレテーを手に入れている」のだと、だから大丈夫だと高柳先生は微笑む。高柳先生は明らかな悪にはちゃんとNOを言うけれど、答えを出すまでに悩んだり迷ったりすることを否定しない。おれはそれが優しくて嬉しくてちょっと泣いてしまった。

 私情であるが、おれは昔許されないことに加担してしまったという自覚がある。15の時からそいつはずっと頭の奥の方にあって離れないし、離してしまってはいけないと思う。どうやって償ったらいいのかわからなくて苦しくて泣きたくなってしまうことがしばしばある。とりあえず、こうしておれが今苦しんでいること自体は間違っていないのではないか、という気づきをくれたのが無性に嬉しい。

 実はこの作品を描き始める前、作者の近しい方が自ら命を絶ってしまったらしい。彼女は親戚の何気ない言葉に大きく傷つき、苦しみ、死を選んでしまったという。彼女の遺品の中には付箋をたくさん貼った倫理の教科書があって、苦しんだ彼女が答えを求めようと足掻いたあとがそこにあって、そうして作者は題材に倫理を選んだ今、その教科書を開いて勉強しているのだとあとがきにある。

 倫理とか哲学とか心理学とかを修めようとしちゃう人って大抵心の健全度が少なくとも平均を割り込んでいる印象がある。何かに追い詰められて否応無しに自問自答を突きつけられて、苦しんでるから学術的に答えを求めちゃって、求めちゃっても結局自分で戦うしかないからってんでめちゃくちゃな方向に強くなる人と、耐えきれず下手こいて死んでしまう人がいるという勝手な印象である。高柳先生はチャーミングだ。いっちょまえに焦るし怒鳴るし恥じらう。二話ではお嫁さんになりたかったと言いながらレイプ被害を苦に飛び降りようとする女子生徒に、少ない友人を必死にかき集めてかき集めて、自分も入れれば4人くらいになる、これで合コンを開くからと説得する。読者も女生徒も一斉に「4人て!」と突っ込むが、これが先生なりのギリギリ精一杯の誠意の示し方だった。仮に自分が貴方を嫁にもらうからなんて言ったところでそんなもの当事者を居場所を奪い傷つけるだけの無責任な発言にしかならないことを先生はちゃんとわかっている。先生もきっと苦しんだ人だ。それはもう、苦しんで悩み抜いて戦って、いまも戦い続けている人だ。そんな先生のある種の隙がチャーミングさとなり、「高柳先生はえっち」につながるのだと思う。もう一度言う。高柳先生はえっちである!

 本田さんが魂の一部を分け与えたぬいぐるみのリュウくんもまた魂であるということ、魂とは何かという命題に対して浅学なおれにも新たな切り口を与えてくれた気がする。魂というか、人格というものを規定するのが自己なのか他者なのかって問題は太古の昔からいろんな人が言ってる印象があるけど、そこに役割があって、だからそれは人格なのだって考え方もまた一面なんだなって思ったら俄然倫理学に興味が湧いた。

 おれはこの通り見たものや聞いたものにすぐ影響を受けてしまうミーハーちゃんなので、次の平日、できれば明日には高校の倫理の教科書を買いに行こうと思う。そして高柳先生のえっちさを思い返しながら年甲斐もなく読みふけりたい。最後に念を押すが、高柳先生は最高にえっちである!

 

 

金剛寺さんは面倒臭い

gekkansunday.net

これはもう、絵面・エモさ両面で5億点である!!!!!!!!!!!!!!「出会えてよかった」とこれほどまでに感じさせる作品は久しぶりだ。

言ってしまえば先ほどやや批判的に言及してしまった「何でもかんでも無条件に肯定する」系の漫画とも言えなくはないのだが、潔いまでに力強いこの全肯定が向けられている先は幸せな結末に対してである。この作品に関しては(少なくとも1巻現在では)ネタバレについての配慮はほとんどいらないと思われる。なぜなら二人が幸せな結末を迎えることは絶対に約束されているから!!!!!!!

頭脳明晰・文武両道・常に論理的で正しさを求めてやまない金剛寺さんに純朴な樺山くんが恋をした。そこから始まった二人の恋の前にはどんな事実も大きく関わりはない!樺山くんが地獄出身であることも、そんな彼の下の名前がプリンであることも、金剛寺さんのフルネームだって「金剛寺金剛」なんてふざけてるように見えることも、通りすがった妊婦の救急搬送も、その子の誕生も、未来のメジャーリーガーも柔道部のIH優勝も銀行強盗もなぜか周囲を固める武道の達人たちも全て!!本編には大きく関わりのない物語である!!!!

そんな中で金剛寺パパは言う。「君の人生に大きく関わりのないと思われるものの全てがある日大きくつながるのだ」と。全てが樺山くんと金剛寺さんの恋路に合流し、そしてそれは絶対にハッピーエンドを迎える!こんなに力強い肯定があるもんかと、目の前にしておれはちょっと泣いちゃったじゃないか。

 気になって作者のブログを読んでみたら、作者には去年とても辛いことがたくさんあったらしい。そして作風から受ける印象に反して、「この漫画は遺書のつもりで描いた」のだと。真剣に自らの死と対面した人が底抜けに明るい言葉を紡ぐようになる事例は星野源とかをはじめいくつかおれも見たことがあるけれど、この作品から溢れ出る輝きはきっと作者が削った命のかけらを使っているからなんだろうなという感じがする。それくらいきらきらと何の曇りもなく輝いている二人の恋を応援しているだけで、おれという事実すら二人の恋に巻き込まれてハッピーエンドに持ち込まれてしまうような気がする。それくらいの力を持ったパワフルラブコメディーである。

 そんなパワフルさとエモさを支える画面構成だが、この作品の画面では手書きのレタリングが特に演出の大きな一端を背負っていると言える。表紙もそうだけど節々に効果的に挟み込まれる手書きの太字セリフが物語にメリハリと躍動をつけ、長い台詞もテンポよく認識できるようになる。多分今期間限定で連載前のプロトタイプ作品が読めるのだが、そちらの方にはあまり手書き台詞がなかったのでこの効果は明白に思えるっていうかもういいやおれはこういうのが大好きだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!専門家じゃないから効果とか理論とかは知らんけど好き!!!!!!!!!!!!!!!そんで気が狂ったようにドバドバ多用される見開きの強さ!!!!!!これがエモい!!!!!!!!!!!!!!読んだ人にだけわかってほしい、ママとイチゴのあのシーン!!!!!!!!!!!!!!!!!!!泣いちゃうだろ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!あれが、あんなに少ない文字数で、あれこそが愛のイデアだと、圧倒的な表現力で、わーーーーーーーーーーーーーーっ好きだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!知るか!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 突然だけどおれは終末が大好きだ。終わりに救いを求めてしまう根の暗いオタクだからこそ、終末が大好きだっていうか美しい終末が大好きだ。散々燦々たる様相でぐちゃぐちゃになって辿り着いた終わりこそ美しく、そうあってほしい。どうかこの物語に美しく絶対に幸せな結末が訪れますように。こうやって祈ることでおれも彼女たちの恋に巻きこんでもらえることを期待している。

 

 

 

 

少女終末旅行

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 なんてこった!なんとなく雰囲気が好きで診始めたはずのアニメが、おれの人生のバイブルになってしまった。とりあえず持ち歩くために漫画を全部買った。展にも行った。(原宿は寒くてちょっと怖かった)円盤はごめん、おれは今そんなに金がなくて全部一気に買うわけにはいかないのでちょっと待ってほしい。アマゾンプライムは契約済みである。アニメで十分話題になったが、おれはこの作品を「舞台こそ特殊だが可愛い美少女二人が冒険するゆるい日常アニメ」なんて評するオタクを片っ端から斬り捨ててやりたいくらいだ。OPED共にせっかくいい曲なのにCDのジャケ絵が解釈違いすぎてちょっと困っている。まあいい曲なのは変わらんのでぜひ買え。

 

 

 アニメがバイブルであったなら、漫画はもうなんか、表現としての優劣とかではないけどおれの性(さが)的なものの形に添いすぎて触れて沿ってめり込んで、なんかもう魂の一部になっちゃった気がする。どうしよう、ここで下手に言葉にしてしまって、否定でもされようものならおれは死んじゃう気がする。おれの拙さゆえにおれは死ぬ。のでいまはめちゃくちゃ語るのはやめとく。いつかちゃんと書きたいので下書きはしておく。

ただちょっとだけ言っておくと、おれが思うに読者として感情移入するのはチト(黒髪の方)で、ユーリ(金髪の方)はきっとチトに感情移入しちゃう人たちにとってあってほしいものの姿、比喩的にいえば女神の姿なんじゃないかな。ちょっぴり頭がいいが故にどうしようもなく思い悩んでしまうチトに対して、ユーリは頭空っぽに見えていつも達観している。ユーリになりたいのではない。ユーリにそばにいてほしいんだ。「生きるのは最高だったよね」と、辿り着いた終わりの美しさを認めてくれるだれかにそばにいてほしいんだ。

 

 

 

BEASTARS

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一転してこれについてはめちゃくちゃ喋りたい。喋らせてくれ!頼む!どうかこの作品が世界中に見つかっておもちゃにされてしまう前に、おれの爪痕をどうか、どうか、聞いてくれおれは昨日今日で前述までの漫画を読んで何度も何度もボロボロ泣いたがこの作品に関しては感情移入して泣いちゃうこともあればあまりの興奮に声をあげてむせた場面がいくつもあった。もう一回言うけど興奮でむせてちょっと泣いた。すごい。この本はすごい。すごいエロ本だ。エロすぎる。

 

あのズートピア(キツネとウサギが活躍する大ヒットしたディズニー映画、おれも劇場で見たしとても良かった)よりちょっとだけ遅れて世に出てしまった、作者本人も間が悪かったとおっしゃってたが、作品の構想は1993年生まれの作者の幼少時から遡る。小さい頃から動物の絵を描くのが好きで、擬人化した絵を描くにもちゃんと設定を考えていたのだという。そうやって一人の作家が20年練り上げ続けた世界観を惜しげも無くガッシガッシとぶち込んでいくこの作品はあまりにも重層的なヒューマンドラマだ。アクション、ミステリー、ラブロマンス、青春、普通に人生を生きてたって当然降りかかるこれらの要素を、登場人物、じゃなくて獣たちもそれぞれがそれぞれに背負っている。ていうか主人公のこのかっこいいハイイロオオカミのレゴシくん、作者が中高生の頃に雛形ができてたキャラだっていうからそりゃもう寵児でしょうやと。だからこんなにクソほどかっこよくてエロいのも仕方ない。関係ないけどインターネットの掲示板でレゴシくんが「レゴ氏」って呼ばれてるのを見たときは久々にインターネットでほっこりした。かっこいいもんな。インターネット見てると傷つくことが多くて、特に感受性の凝り固まったおじさんやおばさんにおれが一生懸命生きている今を否定されると涙が出るくらい悔しくて悲しくて不安になっちゃうのだけど、たまにこういうのがあってインターネットをやめられないのだ。おれも今度から敬意を込めてレゴ氏って呼ぼう。

 まずちょっとズートピアの話をしたいんだけど、おれもお前もズートピアが大好きだ。肉食獣と草食獣が共存する世界で、「弱い草食動物だから」という偏見を跳ね返して跳ね返して、それでも跳ね返しきれないその重たい鎖にめげそうになりながらも踏ん張って戦う小さなメスウサギのジュディは中盤、「肉食獣は遺伝子の由来的に獰猛で野蛮」とかいうそれっぽい理屈をつけた差別で、心から友達になれそうだったキツネのニックを傷つけてしまう。ズートピアが大好きなお前はおそらくズートピアの雛形作品の噂を聞いたことがあるだろう。制作途中まで、ズートピアの世界において肉食獣はその本能を戒めるために電流の流れる首輪をつけられる、なんてエグい設定があったらしい。差別に基づいた人権懐柔の、あまりにもグロテスクなメタファーである。獣だけど。結局ディズニー作品の看板を背負うズートピアは、レッテル貼りと差別の闇についてそこまで深部に踏み込んで曝け出すようなことはしなかった。それはマーケティング的な戦略であったのかもしれないし、単にもっと幼い年齢層を視野に入れた責任ある選択であったのかもしれない。間違いなくズートピアは面白かった。しかしそれに対して、逆に闇に肉薄しているのがBEASTARSだ。

 BEASTARSの世界では、ズートピアではそんなに踏み込まれなかった「食べ物」の話が大きな大きな断絶として、一見明るく平和な世界の、底の方の暗い部分にずしりと横たわっている。この世界で彼らは肉食という問題を根本的には解決できていない。食肉を重罪とする倫理を築き上げることで被食者と平和に共存することを選んだ彼らは本能の部分でずっと、「草食動物を食べたい」らしい。

 現実の話をするけど、例えば「性暴力は無論悪だが男性の本能によるものだから根絶することはできない」とか、「女性には共感の本能があるから共感できないものに対して怒ったり拒絶したりするのも仕方ない」とか、日本人はすぐ出る杭を打つとか中国人は雑とか白人とか黒人とか挙げたらきりが無いけどそういうものを大雑把に「本能」って呼んでいることが多い気がする。男の本能女の本能、狩猟民族の本能農耕民族の本能ヒトの本能、本能とは意識の外側にあって、理性ではそこそこのコントロールこそできても存在を抹消することのできない、誰にもどうしようもできない宿命としてそこにある、とみんな考えているんだとおれは思う。理性が人の本質だとして、そういう人じゃない部分、理性や気概ではどうしようもないことをかつては「神の思し召し」と呼び、最近は「遺伝子のせい」とか呼んで暗い部分に転がしておくようになった。いろんな界隈でいろんな人がダーウィニズムを都合よく自分の理論に当てはめていく。遺伝子の概念は新しい神になった。それは現存するものを「最適解」として無条件に肯定し平伏する行為に科学的っぽい根拠を与えてしまったような感じがする。無論、社会で信仰っぽく振る舞うようになってしまったダーウィニズム的何かとちゃんと戦って叩き潰している学者は多く存在する。進化が中立であることくらい学部生だって最初に習う。ただ、人という動物が生きていくために作り上げたシステムはあまりに強固で頑丈で、それっぽくて、絶望的だ。

 レゴシくんは主人公で、ヒーローである。大型肉食獣のくせに臆病で繊細で虫が好きだった少年は主人公として物語の深部に巻き込まれ、闇を背負ってどんどん強く、そして不幸になっていく。せめて無害でありたいと願った彼がかつて必死で隠し通そうとした強さを、彼は大好きな女の子の幸せのために使い切ることを選んだ。そうやって「狩猟本能が変形した恋愛感情」とまで呼ばれてしまった気持ちですら自らの行動で上書きしていくことを選んだ。大好きな女の子を救うためには、これまで動物たちが作り上げたあまりに強固で頑丈でそれっぽいシステムと戦わなくてはならないことに、レゴシくんはちょうど気付き始めている頃である。と、おれは現行最新刊まで読んで解釈しているんだけど間違ってるかもしれない。とにかくレゴシくんがエロくてかっこいいんだ読んでくれ。

 

 ということで以降はおれが興奮しすぎて咳き込んだ場面を順番にあげていく。そこに転も結もなくあるのはおれの鼻息と大小のネタバレだけなので注意するように。

 まず2巻問題のハルがレゴ氏を脱がせるシーン、プロのハルちゃんが童貞レゴ氏のベルトをかちゃかちゃやりながら「お腹の毛色 顔と同じなのね」「どこまで続いてるのか見せて…?」なんて言ってるこのどエロいコマを見ておれは今読んでるこの漫画がただ事でないことを思い知った。現実では決して吐けない、それでいてこんなどスケベな台詞を組み立てるために土台に築き上げられたものたちの、その堅牢さを思っておれは身震いした。只事ではないのだ!

 細かいところを挙げるとキリがないが飛んで4巻、この巻はやばい。どエロエロのエロの助てんこ盛りの一冊である。ルイ先輩とハルちゃんの関係が明らかになる話なんてもうまず絵面からしてその筋の人にとったら文字通り極上なんだけど、やっぱりこの世でこんなにまでウサギとシカのセックスについて考え抜いた人はあんまりいないだろうと思う。何と言っても表情の描きわけが秀逸すぎる。どんな場面でも強く威厳があってかっこよかったルイ先輩がこんなにあどけない顔をするのは、学校ではハルちゃんの前だけだというのがありありとわかる。ハルちゃんのウサギらしからぬプロポーションと、それでもウサギ独特の柔らかさを共存させたフォルムの危うさにもドキドキする。ていうかレゴ氏もレゴ氏で自分の恋心を自覚するのにそんな凶悪な面で大ゴマぶち抜く主人公がいてたまるか。好きだ。

そして特筆すべきは本格的に動き始めたもう一匹のハイイロオオカミ、後輩で美少女のジュノちゃんの瑞々しさとエモさである。ハルちゃんが背負うのが弱者のメスとしての業ならば、ジュノちゃんから匂い立つのは強者のメスの業である。ルイ先輩を押し倒す大問題のあのシーン、気持ちの面で言えばおれはちょっと血を吐いた。若いメスらしく濡れた瞳にオオカミ独特の背中の曲線、ふわふわの毛並み、下には組み敷かれたシカ、夜の練習場に一つだけともるスポットライト、こんな演劇的にエロいシーンを演じられるジュノちゃんのエロさがもうエロエロで死んじゃいそう。なんなら一番推してる。ジュノちゃん。ジュノちゃん!

ていうかルイ先輩だ、ルイ先輩の過去の話でおれはむせび泣いた。肉食獣のために秘密裏に売られる生き餌として幼少期を過ごしたルイ先輩の、言葉すら教えられないまま肉食獣の前に放り出されたルイ少年の、食われて殺されるくらいなら自ら首掻っ切って死ぬことを選ぶような気高さは生まれ持ってのものだった。ルイ先輩、お前かっこいいよ、もう十分だよ、疲れたろう、幸せになってくれよ、頼むよ、そんな、そんな方向に行かないで、そんな柔らかい表情をするようになっちまって、ああ、せんぱ、あ、うあ、うあぁ・・・5巻・・・アア・・・レゴ氏とハルちゃんの5巻と6巻を跨ぐ救出劇からのラブホの、この別に海はないけど耳をすませば海がきこえるような、激しくアクションこなした後で不意に訪れる打ち上げ花火みたいな泥臭い青さのすぐ側で一人暗闇に溶けていくルイ先輩を誰か見つけてやってくれ・・・ア・・・もうだめだ、泣いてしまう、この続きはぜひ本編を読んでくれ・・・今すぐ読みたいと思った君のためにもう一度amazonのリンクを貼っておく。後でと言わず今すぐポチれ。ちなみにおれに広告収入などは一切ない。これはただ一重の愛とリスペクトだ。さあ・・・

 

BEASTARS 1-7巻セット

BEASTARS 1-7巻セット

 

 というか登場人物全員がおれは大好きだ。レゴ氏もハルちゃんもジュノちゃんもルイ先輩もどエロいことはいっぱい喋った気がするけど、登場人物、人物じゃないや獣だけど、みんながみんなそれぞれの人生を、だから獣だけど、でも一生懸命生きている。

 レゴ氏には幼馴染で親友のゴールデンレトリバーのジャックという男の子がいるのだが、一見ただのんきで人の良さそうな彼は自らの血統にコンプレックスを持っていた。 草食獣と肉食獣の間で行われた大きな戦争の後、平和のために人工的に改良されて作られたのがイヌとネコという種族であって、ジャックはとても賢いけれど、それは作りものだからだといじめられていた。それでも明るく真っ当に学生生活を謳歌しているジャックに対して、レゴ氏はどんどん社会の闇の方に潜っていく。これまでジャックはレゴ氏の親友としてそれなりに重要なポジションだったし、巻頭のキャラクター紹介でも必ず場所を割いてもらっているけれど、多分今後は、例えばドラゴンボールクリリンみたいに、メジャーの小林みたいに、日常から離れて遠くへ行ってしまう主人公に置いていかれて物語の中央からは逸れてしまうんだとおれは思う。それは賢いジャック自身も物語の中で自覚していて、レゴ氏に対して「君はもう遠くにいるんだろ」と泣きながら心配するのだ。わかってくれるだろこのエモさを。置いていかれる寂しさを。ていうかお人好しでのんきで成績は学年トップクラスっていう設定がドツボでおれは布団に顔を埋めて吠えた。

 一番最初に小悪党ムーブをしていたマングースの子は演劇部の役者セクションを不当に降ろされ暴れていたけれど、最近はなんだかんだで針子仕事を気に入ってるところが憎めなくて可愛らしい。この世界の大型肉食獣の一般的な業をメタファーしているベンガルトラのビルだって、肉食草食問わず友達のことはちゃんと大切にする普通の高校生の一面を持つ。善者的印象をアピールするために400万かけて全身を可愛らしく整形したライオンの市長が、手だけは奥さんに好きだと言われたからってそのまんまっていうエピソードも本当にエモい。あとおれ雌鶏のレゴムさんのエピソードがめちゃくちゃ好きなんだけどみんなもそうだろ。売店にたまごサンド用の卵を納品するアルバイトに全力で誇りをかけているレゴムさんのこと嫌いな読者絶対いない。この世界では無精卵は普通にセーフっていうかOKの位置にあるらしい。まあ無精卵ならただの細胞だし、鶏以外にも自分らの毛を売ってお小遣いにするって描写もあったからこの辺に線引きがあるんだと思われる。レゴムさんにはぜひ再登場してほしい。

 ここまで書き連ねたが、BEASTARSの魅力はその緻密さと重厚さにあり、世界観厨にはたまらない一品となっている。どうやらこのマンガがすごい!に続いてメディア芸術祭賞、ひいてはマンガ大賞までバンバン賞を撮りまくっているし、この漫画を世界が見つけてしまうコンマ1秒前の段階にあると思われる。

 

 当然BEASTARSだけじゃない。ここで紹介した漫画全部本当におれは感動した。世界を一歩先取りたい君は今すぐ、自分の世界を大切にしたい君は自分のタイミングでぜひ読もう。読んでくれ。こんなすごいものを描ける人たちが儲かってくれないと困るんだ。さあ!

 

 

 

 

 

 

 

 

読む前、おれは凹んでいた。いろんなところからお前なんていらないと言われ続け、大きなポカもやらかし、それはおれ自身がやってきたことのしっぺ返しなのかもしれないし、けどおれはおれなりに一生懸命生きてきたはずなのにって悲しくて死んでしまいたかった。ので久々に漫画に助けを求めたといったところだった。

漫画の他にも色々買った。主に平成に刊行された小説や薄いエッセイとかだ。クレカを差し出しながらおれはどきどきして嫌な汗が出た。読み始めてちょっとの間はすぐ顔をあげて周りを見回すようなことをやった。おれは怖かった。いきなり出てきた父親に「またそんなくだらないものを読んでるのか」って怒られるのが怖かった。おれはとっくに実家を出てるしここは東京でおれは一人のはずなのに、いない父親にびくびくしながら本を買った。

昔から平成っぽい本を読んでると遊びだとみなされてねちっと言われた。文豪の古典、あるいは父親が好きなSFや司馬遼太郎を読んでる間はそんなことなかった。SFは大抵進みすぎた技術のせいで取り返しのつかないことになるって脅しをかけられるから怖くて嫌いだったし、司馬遼太郎は文体が汗臭いし、長いし、あとなんかすぐセックスするからついていけなかった。読書は嫌いじゃなかったけど「役に立つ知識を身につける時間」だったので、そういう若い小説やエッセイを読むのはどうしても遊びで、居心地が悪くておれは全然楽しめなくて、正直いまでもそうだからおれはそんなに読書家じゃないし中公新書ばっかり読んでいる。サピエンス全史みたいな分厚いハードカバーだったら罪悪感なく楽しく読めるんだけど、持ち歩いてぼろぼろにしちゃうし重いし疲れるし集中力もそんなにないし、とにかくあれだ、おれは多分好きなだけ1、2時間で読み終われるようなぺらぺらの本を読んでみたかった。

色々買った。その辺の界隈で名高いよしもとばなな星野源のエッセイ、映画化した恋愛小説、ラノベ、なんか内臓を食べたがるやつとか、前前前世の小説版とかまで買ってしまっておよそ1日でだいたい読み終えた。結果としては、ダメだった。

ダメだったのだ。いつもの樹海を掻き分けて読み進むような手応えのない、舗装されたハイキングコースみたいでストレスもなく天気もよくてぽかぽかして蝶々が飛んでて、みたいな文章をおれは怯えながら読み進むしかなかった。おれはとっくに実家を出てて、ここは東京なのにだ。

残念ながらおれは両親の期待に答えられず、両親並みの学業成績しか出せなかった。おれがそこそこ秀才だったのは17までで、元々の限界だったのかストレスだかなんだか知らんけどなんかいろんなアレとソレがある日ポーンと爆発して飛び散って、スカスカの脳味噌とほぼない自我だけそこに残ってしまって数年経つ。特待生にもなれなかったしお前なら入れるなんて担任に豪語された東大にも普通に入れなかった。稼ぐ気力もあんまりないから雑に生活して将来を食いつぶしているし追い詰まったら死ぬための遺書と紐を用意してのらりくらりとギターとか弾きながら暮らしている。

そんなことねえよとは思ってるんだけど、おれはずっと父親に認めてもらいたがっているらしい。おれ自身のための心療内科みたいなつもりでこのブログをひっそり書き綴ってきたけどほとんどファザコン日記みたいになってて気持ち悪いのはおれも知ってるから膨大に書き連ねた下書きを全然公開できないでいる。

これはおれのリハビリである。おれはおれの価値観のみに基づいてこれらの漫画を買った。その結果とても面白かった。小説だって実はおれ自身がそんなに好きじゃないのかもしれない。映像媒体はどうも、好きなんだけど集中力が続かないしおれのペースで進まないからなかなかズッポリハマるってところまでいけなくて、でもやっぱり書籍媒体はおれに向いてるかなあという気はちょっとする。おれは好きなものを読む。好きなものを食って好きな服を着て好きなものを見て、ついでに可能なら将来的には猫を飼いたいのでそのために稼がなくてはならない。社会に組み込まれて戦う以外のすべは、無能なおれにはどうやらないらしいから。さーてお風呂はいるぞ〜〜〜社会性社会性!!!!

ギターを買った。これでまた一歩よき死に近づいたので満悦で筆を執る。

 

ギターが欲しいと思っていた。なぜなら弾けたら楽しそうだからである。なお今現在においては全く弾けない。音符も読めないし、音楽の知識は皆無である。そんなゆるふわ根性ながらせっかくなら大好きな向井秀徳氏と同じフェンジャパのテレキャスターがいいなと思ってほろよい桃を飲みながらなんとなくググっていたときに一目惚れしたモデルがあった。"Fender Japan 2017年製シンライン Olympic White "だって。白い塗装のボディに薄墨色のローズ材のネックがすっと立ち、黒いピックガードが全体の印象を凛と締めて、その印象は一言でいえば「高貴」。それまでは漠然とむったんやのんちゃんみたいに赤いテレキャスターがいいな~なんて思っていた脳みそが一瞬できゅんと沸騰して、これがいい、これにする、明日買いに行く、とまで思い切って食器棚に鎮座していた貯金箱代わりのコップの中身を確認した。 

5月にペトロールズを聞いてなんとなく音楽いいなと思いはじめ、6月にyoutubeで違法にアップロードされていたザゼンのフェス演奏を聞いて雷に打たれたような衝撃を覚え、末日に突発でチケットを取った向井秀徳ソロにまんまと恋に落ち、8月に誰かの「今から貯金すれば飛行機も余裕でその上飲み食いし放題!」ってツイートを見て来年のRSRに行こうと貯金を始め、毎月おおよそ諭吉一人ずつ、絞り出したへそくりをこつこつ割れたグラスに突っこみ続けて5か月、途中無理をした甲斐もあって、果たしてそこには8万貯まっていた。十二分に射程範囲を賄える金額だ。結局気が変わってギターを買うことにしたわけだが、何が問題か。金とは使うためにある。かくして私は世界有数とも噂される楽器街御茶ノ水に出向くことを決意した。

 

今日は10時少し前に起床した。趣味の3Dモデリングで夜を徹してしまい就寝が4時程になってしまった後だったので、一日を通して少しぼんやりしてたし眠かった。シャワーを浴びにいくのにシャンプーセットを部屋に置き忘れてしまい結局お湯だけ浴びて上がってしまったし、俊敏に動けないので身支度と化粧に1時間以上かかってしまったけれど、休日なのでそれもよしとして意を決してでかける。14時半。気温は14度と春並に暖かかったのでなおよろしい。暖かいと何がうれしいかというと、重くて可愛くない服を着なくて済むところだ。

 

頭がぼんやりしすぎているので本を読むこともままならず、もうろうとしながらもギター屋のベテラン店員に馬鹿にされないよう戦闘力をぶち上げようと選曲したニルヴァーナのアルバムが半分くらい終わったところで神保町に到着した。途中、前からずっと立ち寄ってみたいとおもっていたメロンパン屋を偶然発見したので、そこで買ったチョコチップメロンパンをかじりながら御茶ノ水駅前まで歩いた。もの食いながら歩いてる時が一番盲目に幸福になれていい。今まさに手に持っている幸せと、目的という希望が揃ってお手軽だ。

 

ネットで見たあのシンラインを買うと意気込んではいたものの、目的のそれが御茶ノ水にあるとは限らない。まあせめて同じようなシンラインを見学して雰囲気をつかむところまでできたらいいなあと思っていたのだが、しかしさすがは御茶ノ水といったところで、私は早くも三軒目の楽器店にてまさにそのシンラインと対面してしまった。白い塗装、ローズ材のネック、黒のピックガード、f字の溝、昨日私が一目ぼれしたシンラインはそれで間違いなかった。しかも楽天より安い。

…安い。安いのだが、実際に白熱灯の下で見るそのシンラインは想像していたのとすこし感じが違った。塗装の感じが妙につやつやテカテカしすぎていて、なんか、そういう、そういうのとちゃうねん...偽物や勘違いではなさそうだった。ネットショッピング往々のあるあるではある。思ってたんと違う。ここでもしそんなことなくて想像通り期待通りであったならば私は店員と他に言葉を交わすことすらなくカウンターに10万円を叩きつけ颯爽と彼女を連れ帰っていたことだろう。だがそうはできなかった。だって、ちょっと塗装が...思ってたんとちがう...

 

 そうこうしているうちに店員が話しかけてきた。「触ってみたいのあったらいつでも言ってくださいね~」そこで試奏と言わないので私は油断した。そうか、弾けなくても持ってみるだけしてみればいいか!無論これは罠である。

店員はいそいそと棚から彼女を降ろし私をアンプの前へ案内した。ケーブルにつないでチューニングを確認し、「やっぱりシンラインなので普通のテレキャスより音がふくよかで」云々と一通りの説明を懇切丁寧にしてくれる。聞いてたんと違う。やめろ。どうぞ弾いてみてくださいじゃねえ。私は文字通り持ってみたいだけだったのだ。それっぽい椅子に座らされピックまで渡されて。聞いてたんと違う。どうする、どうなる、ええい!

私は一番細い弦をぴーんと弾き、その音は電気を介してマーシャルのアンプから店内中へ響き渡った。あとには店内放送で流れるRADWIMPS洋次郎の英語ラップだけが残った。

 

ぜんぜん全く一切何も弾けないんです、と半笑いで消え入りそうに申告する私を店員さんは馬鹿にするどころか、親切にギターを紹介してくれた。ほかの候補としては赤いテレキャスターを考えていると伝えると何本か持ってきてくれて、一つ一つの音の違いを解説してくれた。フェンダーにこだわりがないのなら同じ値段でもこれが一番音がいいですよ、とフジゲンのテレキャスタイプとシンラインタイプも見せてくれて、それでもフェンダーのシンラインと悩む私には甘い音が好きなら振り切ってレスポールはどうでしょう、お客さん似合ってますよ、なんて言ってくれた。

迷っているうちにはじめはいまいちに感じていたシンラインの塗装も気にならなくなっていた。店員さんに代わりに弾いてもらっているうちにやはりテレキャスターの硬い音が好きだなあなどと思ったりもした。迷って迷って3時間ぐらい居座ってしまって申し訳なかったが、結局、最後に残した候補3つの中から私が選んだのは、例のシンラインではなく、結局、フェンダージャパンの一番新しいモデルの、60年代風の真っ赤なテレキャスターだった。

支払う時に昔自分で設定した限度額を超えているためにカードが使えずちょっと恥ずかしい思いをしながらダッシュでファミマに下ろしに行ったり、背負わせてもらったギターの重みに浮かれて歩いていたら千代田線入り口まで来てしまい(※注釈 地下鉄の御茶ノ水駅は乗りたい線によって入り口が違い、中で繋がってもおらず、しかも結構離れているため急いでいるときなどに間違えてしまうと命取りになりかねない)戻れずちょっとした迷子になったり、ようやく乗り込めた帰りの丸ノ内線が思ってたより混んでて必死にギターを守りながら数駅やり過ごしたり、といった大冒険を経て帰宅したのが結局19時半ばだったか。途中なんどもあのシンラインのことを思い浮かべては、いや私はこの子を選んだのだから、と断腸の思いで振り切った。やたらめったらギターをコレクションしてしまう人たちの気持ちが少しわかった気がする。色だけ違うグッズがずらっと並んでたりとかアイドルグループの衣装だとか、マイナーチェンジが一番購買意欲をそそそるのは、似通った中でその変わった部分こそが本質を示すからだろうか。白くて綺麗で音の柔らかな彼女のことは、いつかまたお金が貯まった時に迎えるのも悪くないなと思う。

ギターだけを買って満足してしまい音を出す機材もチューナーもピックも持っていないので今日は抱いて寝る。もやし生活や電車代を浮かすためのチャリ通学も努力と呼んでくれるなら、努力の成果で一つ夢を叶えたと言える。しがらみ無き良き死に一歩近づいた記念日としてここに筆を取った。おやすみ。

 

追記:ひとまずチューナーとピックを買ったのでチューニングを合わせていたところ、勝手がよくわからずペグを巻きすぎて一番細い弦がバチンと切れてしまった。まだコードも押さえてないのに。私の人生いつもこんな感じだ。明日換えを買いに行く。

 正月食いすぎたので最近は食い物を控えている。こういうとき特にありがたいのは味噌汁の類で、豚汁なんかあったかくて70kcalでお肉も入っててそこそこ嬉しい気持ちになれるので万々歳様様ありがとうフィーバーですね。うきうきで包装を破き、蓋を取り、中身を取り出し、味噌を絞り出すのだけど、この味噌を絞り出すって行為が毎回こう、ざわざわする。

 まあ不器用なんすけど、不器用だから上手に絞れないんですよね。一生懸命押し出しても縁のところにくっついちゃったやつが落ちてくれなくて、これをどうにかしなくちゃってときにざわざわする。似た状況にフルーチェ作るときとか、クックドゥーとか、あとはシャンプーの詰め替えとかあるよね。最後まで落ちてくれない。このままでは罪なき食材が、不器用な私が袋にくっついちゃったのをうまく落とせないせいで、ごみ箱に捨てられてしまう。無駄になってしまう。もったいない。よろしくない。ああ~~~~

 

 で、ここだけ読んだら単にもったいない精神発揮してる貧乏性ってだけでなんの面白みもないんだけど別に私もったいないから嫌とかそういうんじゃないんですよ。怒られそうだけどそもそも私個人的には食べ物を残すことに対してあんまり抵抗がない。食いたくないもんは食わんでいいし、自分で活用できないものは譲るか捨てるしかない。この辺の理由というか言い訳は長くなるんで今回は割愛するけどつまりこんな誤差範囲の味噌なんてどうでもいいしさっさと捨ててお湯注いで食べたい。俺は腹が減ってる。なのに捨てられない。みみっちくちまちま舌打ちしながら味噌を絞り出す。

 そんで、わざわざざわざわ(よみづらい)なんて擬音語使って女オタクしぐさ表記で強調したのはこの点であって、この、極めてプライベートな時間・領域で己が哲学に反した行動をせざるを得ない状況に陥っている思考回路に違和感を抱いているのである。

 

 まあ、結論は出ているのでこうして文章に書いているわけですけど。

 「もったいない。」「よろしくない。」?何を以て「よろしくない」のか。ざわざわしているとき、この「もったいない」って台詞は私の脳内で父親の声で再生される。白いTシャツにスウェットを履いて、背中丸めて風呂場でしゃがみこんでちまちまとシャンプーを詰め替えている父親の姿だ。わかりきっている。私の中に居座って、私の哲学を曲げているのはこいつだ。

 

 情けない話だけどほんと、ごく最近まで私の中で正義は父親の形をしていた。なんだかんだ言っても結局父親の言うことはすべて正しくて、父親がメインストリームに属さない分野ではそれは一般民衆が間違っているのだと本当に本気で思っていた。子どもにお小遣いを一切与えない父の教育方針が正しく、お小遣いをもらって好きなお菓子や文房具や漫画を買って喜んでいる子どもは間違いであり、劣っていた。ガラケーを使い続ける父の姿が正しく、流行や世相に流されて不要な機能ばかり詰め込まれたスマートフォンに高額な料金を支払い続ける一般市民は愚かだった。子どもに不相応なかわいい服を着て学校に通う女の子は我儘で自分勝手だった。

 どうやら父親が正義ではないらしいぞ、ということに気づいたのが彼が事業をはじめたあたりで、それがうまく行かないことが多いストレスからか、両親の喧嘩が増えた頃だった。毎晩両親の寝室から怒鳴り声が聞こえて、ああお金さえあれば父は仕事なんてしなくていいのに、せめて私がいなければ私にかかる学費はいらないのに、と自分の存在を責めて泣いたと同時にそんな状況をメタ的に考えながら「子供に自分の存在を否定させる親、正直言ってクソなのでは?」と疑念を抱くようになっていった。進学校に通う私の周囲の学友たちはそれはもうとてもとても大切に育てられているというのが彼らの振る舞いから滲み出ているのを私は肌で体感しつつあった。昔から父はキレると手がつかなくなる男だったが、母親を階段から蹴り落としたのを見たとき、それまで妹たちと居間の隅で震えていた私は衝動的に台所から包丁を取り出して奴に駆け寄り後ろから刺し殺そうとした、のを妹に止められたらしい。

 それでも私にとっての正義は父親だったのだ。私が何か間違ったことを言えば父親が随一全て言論と暴力で潰してきた。父は自分が間違っているとは一切考えない人物であるので、論破されるということが事実上不可能なのだ。正義たる父親の像が倒されることは、私の倫理の基盤が崩壊することと同義であった。

 

 結局、父親の像は見るも無残にぶっ壊れてしまい、私も少々ネジが吹き飛んだ。今は一生懸命崩壊してしまった倫理観をアロンアルファで修復している所である。だいぶ形は変わったが、それでも最近は直立してくれるようになった。

 しかし、元あった形とずいぶん違ってしまったなと思うたび、父親の像と比べてしまう私がいる。よくよく思い出して見ると、父親の像もそこまで立派で荘厳な作りではなかった。普段は「普通のTシャツは首回りがチクチクするから」と10年も前に買ったボロ雑巾みたいな白いTシャツを着続け、暑いからって日中構わずトランクス姿で、小さい私に卵焼きを食べさせてくれて、お風呂に入れる前に服を抜いでいる私の側でシャンプーを詰め替えていた。「もったいない」って袋を蛇腹折りにして最後まで絞りきって。会社に馴染めなかった父は早々に勤めをやめて、妹が小さい頃くらいまでは主に育児を担当していた。私にミルクを飲ませたのもオムツを換えたのも全部彼だ。私は彼が並みの父親なりに私を愛していることを知っていた。だからこそ、今感じているのは恨みでも憎しみでも怒りでもなく、ただ偏に仄暗く鈍く透明な何かで、それはおそらく絶望に一番近い。

 暴飲暴食は本当に、よろしくない。昨日私は3日分の努力を無駄にした。やせたい。あと3キロ、欲を言えば5キロやせたい。あのちゃんくらい細くなりたいがしかし痩せたところで痩せたブスが出来上がるだけやんけ!!!何があのギャルだ!!!!!!!!殺すぞ!!!!!!!!!!!!!ファーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 って自棄になってしまったのがよくなかった。まあいい。もともと自制心がゴミクズなのでこのくらいの気概を持って生活していないとあっという間に連日の暴食男祭りの果てにブクブクと肥え太るのは容易に予想できる。あったかい麦茶でやり過ごそう。頑張るぞ!

 

 こういう時にはりんごがいい。椎名林檎のライブDVDを見てモチベーションを高めようというわけではなく(しかし林檎嬢のおみ足がえっちであるのは事実)、文字通りりんごをかじって生活する。りんごはいい。甘くておいしいし、この時期ならちっちゃいサイズで袋詰めされてるお手頃なやつが近所でも売ってるし、何より暴食を誘発しない。

 1枚60kcalのクッキーを一枚だけ食べるのと、1個100kcalのりんごをまるごと食べるのとどちらがよろしいか。圧倒的スケール感で後者の完全勝利である。そもそも前者ができるやつは今頃枝のように細く顔は小さく唇はみずみずしく肌は陶器のようにつややかかつ英語も堪能で日曜日は髪を丁寧に巻き尊敬できるパパとママに見送られて外出し待ち合わせた愛するパートナーと原宿でパンケーキでも食っていることだろう。

 しかし文字通りのまるかじりはこれもよろしくない。野生としての本能が目覚めてしまう。我らデブの使命はいかにこれまでのさばってきた凶悪なる本能と欲求を駆逐し理性で以て人類に勝利をもたらすかということにある。漫然と餌を食いたくなるのは知能労働中だ。それも単純計算などではなく随所随所創意工夫で脳みそ絞らなくてはいけないようなやつ。そんなときにはワークスペースの外の邪魔にならない辺りに皿を置き、その上にりんごを一つ、そしてそばに包丁を置いておくのがよい。ちょっと疲れて食いたくなったらその場で一切れずつカットして芯をとってポリポリ食べるがよい。

 

 本当は餌も食わないくらい集中するのが一番いいのはわかっておる。餌を食わなくていいときというのは、充実した心持のあるときだ。今まさに目の前にやることがあって、意識や手が休みなく働いているときだ。逆に餌を食いたくなるのは考えても思いつかないとき、あるいは考えることがなくて暇なときで、つまり思考が止まっちゃってるときだというのは経験上わかっている。夜道を一人歩いて考え事をしていて、結果茫漠とした不安に襲われ歩きながら死にたくなっちゃったときなんかはもうすぐに最寄りのファミマに駆け込むしかない。肉を噛み脂を啜り塩気と湯気で視界を曇らせることによってなんとか踏切に飛び込むのは避けるのである。こうして「餌食ってる時しか幸せじゃない」なんて悲惨な人ができあがる。あー100円の菓子パンが食べたい。