正月食いすぎたので最近は食い物を控えている。こういうとき特にありがたいのは味噌汁の類で、豚汁なんかあったかくて70kcalでお肉も入っててそこそこ嬉しい気持ちになれるので万々歳様様ありがとうフィーバーですね。うきうきで包装を破き、蓋を取り、中身を取り出し、味噌を絞り出すのだけど、この味噌を絞り出すって行為が毎回こう、ざわざわする。

 まあ不器用なんすけど、不器用だから上手に絞れないんですよね。一生懸命押し出しても縁のところにくっついちゃったやつが落ちてくれなくて、これをどうにかしなくちゃってときにざわざわする。似た状況にフルーチェ作るときとか、クックドゥーとか、あとはシャンプーの詰め替えとかあるよね。最後まで落ちてくれない。このままでは罪なき食材が、不器用な私が袋にくっついちゃったのをうまく落とせないせいで、ごみ箱に捨てられてしまう。無駄になってしまう。もったいない。よろしくない。ああ~~~~

 

 で、ここだけ読んだら単にもったいない精神発揮してる貧乏性ってだけでなんの面白みもないんだけど別に私もったいないから嫌とかそういうんじゃないんですよ。怒られそうだけどそもそも私個人的には食べ物を残すことに対してあんまり抵抗がない。食いたくないもんは食わんでいいし、自分で活用できないものは譲るか捨てるしかない。この辺の理由というか言い訳は長くなるんで今回は割愛するけどつまりこんな誤差範囲の味噌なんてどうでもいいしさっさと捨ててお湯注いで食べたい。俺は腹が減ってる。なのに捨てられない。みみっちくちまちま舌打ちしながら味噌を絞り出す。

 そんで、わざわざざわざわ(よみづらい)なんて擬音語使って女オタクしぐさ表記で強調したのはこの点であって、この、極めてプライベートな時間・領域で己が哲学に反した行動をせざるを得ない状況に陥っている思考回路に違和感を抱いているのである。

 

 まあ、結論は出ているのでこうして文章に書いているわけですけど。

 「もったいない。」「よろしくない。」?何を以て「よろしくない」のか。ざわざわしているとき、この「もったいない」って台詞は私の脳内で父親の声で再生される。白いTシャツにスウェットを履いて、背中丸めて風呂場でしゃがみこんでちまちまとシャンプーを詰め替えている父親の姿だ。わかりきっている。私の中に居座って、私の哲学を曲げているのはこいつだ。

 

 情けない話だけどほんと、ごく最近まで私の中で正義は父親の形をしていた。なんだかんだ言っても結局父親の言うことはすべて正しくて、父親がメインストリームに属さない分野ではそれは一般民衆が間違っているのだと本当に本気で思っていた。子どもにお小遣いを一切与えない父の教育方針が正しく、お小遣いをもらって好きなお菓子や文房具や漫画を買って喜んでいる子どもは間違いであり、劣っていた。ガラケーを使い続ける父の姿が正しく、流行や世相に流されて不要な機能ばかり詰め込まれたスマートフォンに高額な料金を支払い続ける一般市民は愚かだった。子どもに不相応なかわいい服を着て学校に通う女の子は我儘で自分勝手だった。

 どうやら父親が正義ではないらしいぞ、ということに気づいたのが彼が事業をはじめたあたりで、それがうまく行かないことが多いストレスからか、両親の喧嘩が増えた頃だった。毎晩両親の寝室から怒鳴り声が聞こえて、ああお金さえあれば父は仕事なんてしなくていいのに、せめて私がいなければ私にかかる学費はいらないのに、と自分の存在を責めて泣いたと同時にそんな状況をメタ的に考えながら「子供に自分の存在を否定させる親、正直言ってクソなのでは?」と疑念を抱くようになっていった。進学校に通う私の周囲の学友たちはそれはもうとてもとても大切に育てられているというのが彼らの振る舞いから滲み出ているのを私は肌で体感しつつあった。昔から父はキレると手がつかなくなる男だったが、母親を階段から蹴り落としたのを見たとき、それまで妹たちと居間の隅で震えていた私は衝動的に台所から包丁を取り出して奴に駆け寄り後ろから刺し殺そうとした、のを妹に止められたらしい。

 それでも私にとっての正義は父親だったのだ。私が何か間違ったことを言えば父親が随一全て言論と暴力で潰してきた。父は自分が間違っているとは一切考えない人物であるので、論破されるということが事実上不可能なのだ。正義たる父親の像が倒されることは、私の倫理の基盤が崩壊することと同義であった。

 

 結局、父親の像は見るも無残にぶっ壊れてしまい、私も少々ネジが吹き飛んだ。今は一生懸命崩壊してしまった倫理観をアロンアルファで修復している所である。だいぶ形は変わったが、それでも最近は直立してくれるようになった。

 しかし、元あった形とずいぶん違ってしまったなと思うたび、父親の像と比べてしまう私がいる。よくよく思い出して見ると、父親の像もそこまで立派で荘厳な作りではなかった。普段は「普通のTシャツは首回りがチクチクするから」と10年も前に買ったボロ雑巾みたいな白いTシャツを着続け、暑いからって日中構わずトランクス姿で、小さい私に卵焼きを食べさせてくれて、お風呂に入れる前に服を抜いでいる私の側でシャンプーを詰め替えていた。「もったいない」って袋を蛇腹折りにして最後まで絞りきって。会社に馴染めなかった父は早々に勤めをやめて、妹が小さい頃くらいまでは主に育児を担当していた。私にミルクを飲ませたのもオムツを換えたのも全部彼だ。私は彼が並みの父親なりに私を愛していることを知っていた。だからこそ、今感じているのは恨みでも憎しみでも怒りでもなく、ただ偏に仄暗く鈍く透明な何かで、それはおそらく絶望に一番近い。